Find Go Logo Menu opener

桜の通り抜け、140年の歴史と未来への展望とは?(大阪造幣局)造幣局「桜の通り抜け」の歴史と魅力を徹底解説!

大阪の春を彩る風物詩、造幣局の桜の通り抜けが140周年!明治から令和へ、桜守たちの努力と歴史を紡ぎ、138品種335本の桜が咲き誇る。夜桜も楽しめる約560mの通り抜けで、日本の桜文化と人々の想いに触れよう。2025年は事前申込制で開催。周辺のおすすめ桜名所も紹介。桜の歴史と、未来へ繋がる桜の物語を体験しよう。

桜の通り抜け、140年の歴史と未来への展望とは?(大阪造幣局)造幣局「桜の通り抜け」の歴史と魅力を徹底解説!

📘 この記事で分かる事!

💡 明治時代から続く造幣局の『桜の通り抜け』は、約140種類の桜が楽しめる人気のイベントです。

💡 桜の品種の変遷や大気汚染問題など、桜を守るための様々な歴史的背景があります。

💡 専門家による桜の管理や、来場者の安全への配慮など、運営の裏側も明らかにします。

それでは、まず桜の通り抜けの見どころを3つのポイントに絞ってご紹介しましょう。

桜の始まりと明治の試練

造幣局桜の通り抜け、何周年記念?

140周年!大阪の春の風物詩。

さて、最初の章では、桜の通り抜けが始まった明治時代に焦点を当てます。

造幣局と桜の出会い、そして一般公開に至るまでの物語を見ていきましょう。

明治時代に一般公開され140年余り、桜の歴史を人が通り抜けていく

公開日:2025/07/18

明治時代に一般公開され140年余り、桜の歴史を人が通り抜けていく

✅ 造幣局の「桜の通り抜け」は、約560mの通路に142品種・約340本の桜が植えられており、昼間は桜の色彩と香りを、夕暮れはぼんぼりの明かりによる幻想的な雰囲気を楽しめる。

✅ 桜の起源は江戸時代の藩主が蔵屋敷に桜を植えたことに始まり、明治時代に造幣局が開設された際に桜が移植され、局長が一般公開を決めたことで広く親しまれるようになった。

✅ 桜の開花時期の7日間のみ一般公開され、事前予約が必要。アクセスは大阪メトロ谷町線天満橋駅から徒歩15分。

さらに読む ⇒【大阪】耳で旅する音声ガイド出典/画像元: https://www.osaka-soundtrip.com/spot/experience9298/

明治時代から、造幣局の桜の通り抜けが始まったんですね。

その歴史の長さと、桜を守り抜いてきた人々の努力に感銘を受けました。

明治時代、日本の造幣局では、1883年(明治16年)に一般開放が始まって以来、今年で140周年を迎える桜の通り抜けが、大阪の春を彩る風物詩として定着しています。

このイベントは、元々藤堂藩の蔵屋敷で育成された里桜を受け継ぎ、造幣局の敷地内で育まれた桜を一般公開することから始まりました

当初は1kmのコースでしたが、後に短縮されました。

明治・大正時代には、桜の品種変遷や大気汚染による桜の枯死という課題に直面し、専門家の協力を得ながら桜の維持管理に尽力しました。

造幣局の桜の通り抜けが、こんなに長い歴史を持っているとは知りませんでした。明治時代からの写真とか、見てみたいですね!

大正から昭和へ、桜の再建と変化

大正から昭和、桜はどう守られた?

桜守の努力と品種入れ替え、そして戦後の復活。

次の章では、大正時代から昭和時代にかけての桜の歴史を紐解きます。

枯死の問題や、戦後の再開、そして桜を守る人々の努力に迫ります。

佐野桜(サノザクラ)と桜守三代目・佐野籐右衛門氏と植物学者・牧野富太郎氏
佐野桜(サノザクラ)と桜守三代目・佐野籐右衛門氏と植物学者・牧野富太郎氏

✅ 佐野桜は、京都の桜研究家・佐野藤右衛門氏が選抜し、植物学者・牧野富太郎博士が命名した八重咲きの美しい桜で、花弁の形状に多様性が見られる。

✅ 佐野藤右衛門氏は代々庭師の名跡を継ぎ、桜の保存活動を行う「桜守」としても知られ、東日本大震災の被災地に桜を寄贈するなど、桜の保全に尽力している。

✅ 日本の植物学の父と呼ばれる牧野富太郎氏は、佐野藤右衛門氏の先代とも親交があり、佐野桜の命名にも関わっており、両者の出会いが美しい桜文化の発展に大きく貢献した。

さらに読む ⇒私的花写真図鑑・One Drop Room with Flowers出典/画像元: https://jahlove.jp/sakura/346.html

桜の枯死問題や大気汚染との戦いは、桜を守るための大変な努力を感じさせますね。

桜守の方々の献身に頭が下がります。

大正時代には花見客が激増し、桜の枯死も問題となりましたが、桜守の努力と品種の入れ替えにより桜は守られました

昭和時代に入ると、第二次世界大戦中は一時中止を余儀なくされましたが、戦後に再開し、桜樹の補充も行われました。

空襲による桜の焼失からの復活という経験もしました。

この頃、工業復興に伴う大気汚染問題が深刻化し、桜の維持管理は更なる試練を迎えます。

1950年代には大気汚染対策として八重の「関山」が主流となりました。

さらに、昭和40年には桜の移植や寄贈を通じて、地域社会との交流も深めていきました。

大正時代、花見客が増えて桜の枯死も問題になったんですね。でも、桜守の方々の努力で桜が守られたと聞いて安心しました。

次のページを読む ⇒

造幣局の桜の通り抜け、圧巻の138品種! 桜守の情熱と歴史が詰まった絶景。2025年は事前申込制で開催!夜桜も楽しめる。周辺のおすすめお花見スポット情報も。